舟岡山の法源堂 (浜松市半田町) 



歴史と伝説の舟岡山
 舟岡山という山の名はどこか歴史的ロマンを秘めた響きをもっている。現在工場が建っているこの辺り一帯がかって舟岡山とよばれた形のよい山があったところで、松林におおわれた六十三メートルの山の頂きには大智寺という黄檗宗のお寺があった。天竜川がこの山のすそを流れていた時代、遠くから見るとこの岡がさながら船の形にみえたところから舟岡山の名前が生まれたというここ浜松市の半田町町にあるこの山の麓を通り三方原台地にのぼっている急勾配の坂道が滝坂といわれている信仰の道であり、半僧房に参詣する人々が多数往来したものだった。そしてここにある石塔は大智寺を開いた法源禅師を供養するために建立された髪爪塔で舟岡山がなくなった今ではこの石塔だけが昔を偲ばせている。

法源禅師の髪爪塔
 舟岡山に大智寺を開いた法源禅師は今から330年前の慶安4年(1651年)後水尾天皇の皇子としてお生まれになり、十才で京都の泉涌寺に入られ延宝二年(1674年)には黄檗宗の開祖隠元禅師の第二世木庵禅師についてさらに修行、木庵禅師がなくなられたのちには同じ宗派の独湛禅師に師事された。独湛は細江町瀬戸にある初山林寺を開いた名僧である。それが縁でやがて法源禅寺は宝林寺の住職にむかえられ、はじめて遠江の土を踏まれたのが宝永元年(1704年)禅師五十三才の時であった。宝林寺に入られた法源禅師は黄檗宗をひろめるため遠州各地を歩かれ、三方原を横切り浜名平野にも出たが、このときたびたび通ったのが舟岡山南側の山道であった。風光の美しい舟岡山に魅せられた禅師は、領主近藤登之助に願い出て寺を建てる許しを得て、正徳3年(1713年)頂に一寺を開いた。それが大智寺である。初山から舟岡山へ移った法源禅師は、ひたすら仏道三昧の日々を送っていたが、享保14年(1729年)秋十一月、禅師は舟岡山における十年の日々を送ったすえ、弟子の王鳳をともない京都に出かけた。すでに八十才に近い高令をおしての旅であった。京においては宗圓寺にかりずまいの生活を送っていたが、旅での疲れがでたためか、翌享保15年(1730年)二月二十八日、八十才をもって京都で亡くなられた。禅師が不帰の人となったとの知らせを受けた遠江の弟子達は大いに悲しみ急いで京にのぼり、禅師の遺髪と爪を持ち帰り、こよなく愛した舟岡山の頂きに埋め石塔を建てた。それがこの髪爪塔である。正面に「臨濟三十四傳當寺開山法源師老和尚髪爪塔」と刻まれている大智寺は明治のはじめ廃寺となり、いまこの石塔だけがここに安住の地を得て風雪に耐えているのである。

坂上田村麻呂の伝説
 舟岡山には法源禅師の史話のほかに坂上田村麻呂と大蛇にからむ伝説が殘されている。田村麻呂は今から1200年ほど前の平安時代はじめの武将で蝦夷地で起きた反乱を平定しての帰りに、袖ヶ浦(天竜川)西岸のこの舟岡山にしばらく滞在中、里の美女との間に子供をもうけたが、その美女が実は袖ヶ浦に住む大蛇の化身であり、ある日その正体を坂上田村麻呂に見られたので子供を殘して淵に姿を消したという伝説である。

トーチカの跡
 太平洋戦争中、この舟岡山にはトーチカがいくつか築かれた。戦争が激化したため本土決戦に備えて構築したもので、その名殘が今もみられる。幸いにもトーチカは使用されることはなく、平和な時代をむかえたいま、当社の新鋭工場が建てられ、活躍しているとういのも新しい時代の流れである。

                         平成3年4月吉日
                              株式会社 桜井製作所




説:舟岡山の法源和尚
『半田町の西北限にあたる三方原台地の一角に昔、舟岡山がありました。現在の桜井製作所の所です。この舟岡山には昔、大智寺という寺があり、寺には法源様といわれた非常に偉い和尚さんが住んでいました。
法源和尚は後水尾帝(ごみずおいんてい)の皇子で、十歳で出家され洛東の泉涌寺(せんゆうじ)、江戸の増上寺などで修行にはげみました。その後、今の細江町瀬戸の初出宝林寺で独湛禅師(どくたんぜんじ)に参究して、全国各地を行脚し、各地に幾つもの寺を開いたり、廃寺を興した名僧で、舟岡山の寄進を領主である近藤登之助に願い出て許されると、大智寺を創建して住職となりました。それは正徳3年(1713年)の頃のお話であるといわれています。
こうした寺であるだけに、大智寺には檀家というものはありませんでしたので、毎日近くの村へ托鉢に出て、それだけで生活をしていました。でも法源和尚は何も気にせず、心はいつも青空のように晴々と輝き渡っていました。
この法源和尚にはいくつかの伝説が残されています。

ある朝のことです。法源和尚は、
「けさはめしを炊かなくてもよろしいぞ。」
と言いました。不思議に思った弟子ばそのわけをたずねますと、
「いや、今日は、村の甚兵衛さんがわしにぼたもちを持って来るよ。」
と言われました。
「えっ・・・」
と弟子が驚いていると、そのうちにその甚兵衛さんがにこにこしながら、本当に大きなぼたもちを持って来たといわれています。
また、寒い冬の日、弟子達が寒い寒いと言っているのに、和尚は寒そうな顔をしながらも平気でいるので、
「寒くないのですか。」
とたずねると、
「今日は寒いから、村のおかみさんが、布子(綿入れの着物)を持って来るよ。」
と言うと、そのとおり村のおはるさんが温かそうな希子(ぬのこ)を持ってきたということです。
それから当時、東海道を上下する諸大名は、江戸に行く者は新居関所を過ぎると北東に向かい、京都に行く者は天竜川を越すと北西に向かい、必ず駕籠から片足を出して、遥かに大智寺に目礼したものです。
すると法源和尚は寺に居て、
「ああ、某大名が通るな。」
と言ったということです。
大智寺は明治初年廃寺となり、今は髪爪塔がのこるのみです。』

「積志の流れ今むかし」浜松市立積志公民館編より引用

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